今回のお話しは、少し小難しいと感じるかもしれません。
小生も現代に生きるビジネスマンであります。そして現代社会にいきる現代人であります。タイムスリップした侍であるわけもなく一人の現代人です。
故に様々な現代の問題、自分を取り巻く環境への対処、さまざまなストレスに立ち向かって己の心の置き所を見つけ、不動心をもって事に取り組みたいと鍛錬しております。
自分に負けそうな時に思い聞かせる言葉
皆さんも自分に負けそうになるときがあると思います。自分の心に、病に、仕事に、そして生きる事に疲れてしまうときが。
小生もあります、なすべき事をやらなけばならないとき、鍛錬をしなけれならないとき、やり遂げなければならないとき。
そんな時に限って、「恐怖」「不安」「虚心」「妄心」に囚われて己の心身が思い通りにならなくなり、ついには心身すべてが固まってしまう時が
あります。
そんなときに努めて自分に思い聞かせる言葉が
『観受せんとすれば無明を除く(捧心の目付け)』
我執があれば、自然に眼が見えぬようになる。敵に斬られてやろう、敵に身を捧げようと思うがよい。我執の境ひとつ踏みこえれば、敵の姿を見ただけで、どう仕懸けてくるか、なんとなく分かってくるものである。
観受とは、観ようとする、うかがおうとするのではなく、心気を澄ませてあきらかに見ることである。
そう、今相対峙している事、人に対して、自分の身勝手な計略や妄信に囚われ、勝とうとするより、そこにある現実、相手に懐に入り込んで、相手の気持ち、相手の戦略、考え方を感じればいいのだ、相手だって恐怖をかんじているはずだ、妄信に囚われいるはずだ、ならば心を明鏡止水とし心を磨き澄ましておけばよいのだと。
先ずは己の邪念を捨てれば良いのだ、さすれば無心の心で相手の懐にはいることができる。
その一歩を踏み出すために、心を静かに、澄み切らせるのだと言い聞かせるのです。
疲れたときこそ自然体になることで苦難を乗り越えられる
結局、自分の心に負けそうなときは、心をニュートラルにして事に挑む事が肝要だと考えます。
自分の技や知識への過信、妄信、虚心に囚われては己に負けてしますのです。
相手の心もそうならば、己の心を静め、観受せんとすれば無明を除く事ができれば、圧倒的な有利な状況と変化するのです。
現実にそういう体験で自分の苦難を乗り切ってきました。
沢庵和尚も不動智神妙録にてこういっております。
『理とは何もとらわれない無心になる修行にて候。
しかし、事の修行を行なわなければ、道理ばかり胸にありて、身も手も働かず候。
事の修行とは技術の修行にて候。理を知りても、事(わざ)の自由に働かねばならず候。
身に持つ太刀の取りまわし能く候ても、理の極まり候所の闇く候ては、相成間敷候。
事理の二つは車の輪の如くなるべく候』
心身を一体にして事理を両輪のごとく動かせるように心に修行はずっとしていかなくてならないんだと心に誓うことがあります。
自分の心の置き所、そこにいかに静かな心を置けるかが、武士の修行なのだと心に誓う日々なのです。